記憶喪失の少女にという名を与え、使用人として雇うことにした鍾会ではあったが、忘れていたことがあった。
忘れていたことをに伝えようとしたが、はで使用人としてやっていくことに異論はなく、
朝から働いていた。今日は鍾会は休みだったので少し遅くまで寝てから、部屋で巻物に書かれた詩を読んでいた。
「……鍾会様、呼びましたか?」
「入れ」
の声がした。短く言うとが入ってくる。彼女が着ているのは出会ったときに着ていた服だ。と言うか、
彼女はこの服しか持っていない。
名付けた後で持ち物を確認してみたのだがは何も持っていなかった。着の身着のままであの場所に居たのだ。
「書物を読んでいたのですか」
「お前には理解出来ないと想うが」
それ以前に読めないだろう、と鍾会は想う。
鍾会の自室は大量の書物と文机と寝台があるだけの部屋だ。は首を軽く傾げてから、
近付いて鍾会が広げていた書物を眺めた。
「吾家嫁我兮天一方、遠託異國兮烏孫王。穹盧爲室兮氈爲牆、以肉爲食兮酪爲漿。居常土思兮心内傷、願爲黄鵠兮歸故ク……
遠くに嫁がされ、心を痛めている女性の気持ちを歌った詩ですか」
「……お前、字が読めるのか?」
「? 読めますが、何か?」
淀みなくは巻物に書かれた詩を読み上げ、意味を訳した。
驚く鍾会を不思議そうには見ている。当時の識字率というのは低い方だ。武将や文官ならまだしも、平民の識字率は
無いようなものだったし、女性はもっと低い。が読んだのは、悲愁歌と言う劉細君……別名を烏孫公主……が作った詩だ。
劉細君は、公主として西方の烏孫国に嫁がされた。
「読める方が珍しいのだ。書く……ことも出来そうだな」
「恐らくは……書いたことはありませんが」
「買い物に出る前に気付くとは、このことについては買い物後にもう少し調べるか」
「……買い物?」
「お前の必要なものだ。揃えなければならない。経費は給料から天引きしておく」
持ち物と言えば着ている服ぐらいのだ。最低限、必要なものはいるので買いに行くことにした。
雇って給料を出しておいたりしておくのは手元に置いておくためである。密偵ではなさそうであるが、能力的にも
平民ではなく、貴族のようなので様子見をしておくことにしたのだ。
「仕事は」
「今日は休みだ」
「だからあの目立つ鎧や外套ではなく、着物だったのですか」
「私だって鎧以外の服は着るが、お前は私を鎧で憶えているのか」
合点がいったように頷くに鍾会はこめかみを引きつらせながら言う。
「ちゃんと顔で憶えています。後は雰囲気とか」
は無表情に応対していた。感情があることにはあるが、感情自体は薄いし表情には殆ど表れないため、
相手の方がの感情を読み取る必要があった。
「……その服、薄汚れてきているな」
「今日、仕事を教わったときに汚したのかも知れません」
白を基調としているの服は黒っぽくなってきていた。注目を浴びやすいだが服の方を注目されると困る。
自分と共に買い物に出るのだから汚れた服などは着せられないのだが、はこの服しかない。
「服を探してくるのでこの部屋で待っていろ」
「……今から買いに行くのでは?」
「買いに行こうにも汚れたその服で出ていくつもりか」
鍾会は独身であるし、女を家に招くようなことはしていない。使用人も年寄りばかりだ。
服を調達するために鍾会はを部屋に置いておくと、家の中を探してみることにしたが、鍾会は女を作ったことはない。
母親のこともあって、女は苦手なのだ。苦手と言いながらもを拾ったのだから、自分でも自分のことが解らない。
使用人の一人に聞いてみると、蔡彪が置いていった女物の着物を出してくれた。
「鍾毓様が奥方にあげる着物何だけどどちらが良いかと前に持って来た物ですが」
「いらなそうだから使っても構わないだろう」
年を取った男の使用人から事情を聞かされつつ、着物を受けとる。
蔡彪が聴いて来たときには鍾会も居たが着物を置いていったことは知らなかった。あの時の応対は速く蔡彪に帰って
欲しかったので、相づちも適当なものであった。
部屋に戻るとは積まれていた本を読んでいた。指先だけが動いている。
興味を持って本を読んでいると言うことが鍾会にも伝わった。
「鍾会様」
鍾会に気がついて、差し出した着物を受け取る。本は手から離していなかったし、人差し指を本に挟んで
読んでいたところの目印にしていた。
「着替えろ。本は読みたければ貸してやる。私はすでに読み終わっているからな」
「ありがとうございます」
は本を閉じると、淡々と自分が着ている白い服を脱ぎだした。これには鍾会が焦る。
「人が見ないところで着替えろ!」
「……着替えろと言ったのは鍾会様では……?」
服の脱ぐ手を止めては聞いた。その表情には羞恥も何もなく、無表情があるだけだ。
「羞恥心まで忘れてしまったか!? 着替えるときは誰も見ていないところで着替えるのだ!」
「誰も見ていないところ……」
「着替えたら呼べ!」
はそのまま外に出て着替えそうだったので鍾会が出ていくこととなった。出た鍾会は扉を閉める。
――出かけるだけで何故ここまで疲れねばならん。
そう想った鍾会であったが口には出さない。出したら余計に疲れそうだったからだ。
記憶がないではあるが着物の着替え方は覚えていた。知っていたとも言う。
着替え終わり、鍾会を呼んで、服は洗濯を頼んで、鍾会と共に出かけた。着替えた自分を見た時に鍾会は黙っていたが、
着方を間違えたのだろうか。鍾会の後を着いていく。
「視線が集まっていますね……着物でも鍾会様は目立つのでしょうか」
「……良く視線の方向を考えて見ろ、貴様」
見て見ろと言われても分かりづらいので感じてみるが、鍾会と言うよりも自分に注目が集まっているようだった。
「私は目立っているのですか?」
「目立っている」
「何かしましたっけ」
「……お前は目立つ容姿をしているのだ」
は美人の部類に入る。着ている着物は単調な柄であるがそれが一層、を引き立てていた。
とは言え、彼女は自分の魅力については分かっていない。歩きながら鍾会は自分の屋敷がある場所やその周辺について、
市場についてなど教えていく。は後ろで頷いていた。
「貴族が住んでいるところと庶民が住んでいるところは別れているのですね」
「この都市はそれなりの大きさだからな。迷わないようにしろ」
「曹魏の中でも大きい都市なのですね」
鍾会はまずの服から選ぶことにした。服屋へと行き、値段は中間ぐらいで丈夫な服を選ぶ。
使用人用でありながら身なりはきちんとしたように見える服を選択した。
「給料から地道に返せ」
「そうします。借りたモノは返せと言いますから」
記憶の中にそんな言葉が残っていた。何枚か服や必要なものを購入する。靴などもだ。
店の者に好みだけを伝えて選んで貰う。鍾会は女を服を選ぶようなことはしたことがなかったし、
は服を選ぶ感性が鈍い。買った服は布にくるまれていた。
抱くようにしてが抱える。
「櫛などもいるだろうな」
「……いるのですか?」
聞き返す。
鍾会はそう言われてを眺めていた。の髪の毛は櫛で解かしたりはしていないというのに艶やかである。
放って置いてもはこのままではないのかなど鍾会は考えたようだが、それでも、買っておくべきだとしておいた。
揃えるときには揃えるのだ。
「買うのだ」
鍾会は小物を売っている店へと行く。彼は店は勘で選んだ。そこそこの値段の櫛などを購入する。
店には高そうなものもあった。高級そうな首飾りも置かれている。
金色の鎖で出来ていて、中央には翡翠のような磨かれている宝石が着いていた。
(あれは……高そうに見えますが偽物……のような……)
黒い布の上に置かれている金色の首飾りは豪勢であったが、の感覚が偽物であると言っていた。
指摘するべきかと考えて、そのままにしておく。自分の感覚がアテになるものか、には良く分からない。
「買い終わったぞ。店を出る」
「分かりました」
幼子が親に着いていくように、は鍾会に付いていく。一通り、必要なものを買いそろえた。
「行商人も屋敷には来る。欲しいものがあれば自分で店に行くなりしろ」
「これだけあれば十分です。ありがとうございます。鍾会様」
生活が出来る分のものは揃えて貰ったとは想う。
後でやらなければならないことはいけないことは仕事を覚えることだ。生活のためには働かなくてはならないし、
記憶を無くしているにとって、目的があるというのはありがたいことだ。
帰路もは鍾会に着いていきながら街の雰囲気を感じ取る。老若男女、様々な人々が街を歩いたり、
買い物をしたりしている。
「蜀も孫呉も静かなものだな」
「しかし蜀の方はこちらにまた攻め入ってきそうだが」
「……蜀と……孫呉?」
「国だ。昔から蜀は昔から曹魏と対立している。孫呉は敵になったり、味方になったりだな」
街の警備をしている兵士達の声がの耳に入ってくる。は鍾会との距離を少し詰めた。話を聞きやすくするためだ。
曹魏の他にも、孫呉や蜀という国があることをは知った。
「三国もあるんですか」
「前は四国になりそうだったりしたが……昔の中華はもっと国があったのだぞ。統一したり、分裂をしたりを繰り返している」
四国になりそうだったというのは少し前に燕という国が曹魏の北の方に出来そうだったからである。
公孫淵が燕王を名乗り、独立しようとしたのだが司馬一族が率いる軍によって全滅している。
かつての中華は統一されていたこともあるが、今は三国となっていた。
「統一はされていないのですね」
「かつては統一をしようと曹魏や蜀は動いていたが、曹魏は不安定だし、孫呉は守ってばかりだ。
蜀は国力が低い上に山に国がある……お前に言っても仕方がないことだが」
「……三国だと、二つが戦っていたら一方が漁夫の利を狙いそうだったりしますからね」
鍾会が止まり、の方を見る。見られる意味が分からないは鍾会の目を見つめ返した。
「馬鹿なのかそうでないのか分からん奴だ。それと私の目を見つめるな」
「呪ったりはしませんが」
「――呪ったりしたらクビ所ではないからな」
本気で鍾会は言っている。
自分は呪いなどは使えないし、先ほどの言葉は冗談なのにだ。
冗談は鍾会の家の使用人が、会話をしていたのをマネしてみたが、鍾会は気に入らなかったらしい。
冗談は難しいと考えつつ、荷物を抱えた状態では鍾会と共に帰宅する。
門の前まで行くと人が待っていた。
「鍾会様、帰ってきた」
「……蔡彪? お前だけか?」
鍾会よりも少しだけ背の低いゆったりとした長袖を着た青年が鍾会の方に手を振っていた。朗らかだ。
「……知り合いですか? 鍾会様」
「鍾毓様も一緒だよ。待たせてもらってた」
「兄の部下だ……兄上が来ているのか」
主の声が重いとは考える。蔡彪と呼んだ青年は晴れやかな声だったので対照的だった。
は鍾会の家族については知らない。
「新しく使用人を雇ったって言うから顔を見てみたいって言ってたんだけど」
軽く言われて鍾会の表情が更に重く、苦々しくなる。はそこまでは察せ無かったが、蔡彪はを鍾会が雇ったことを
知っているし、の存在も知っている。鍾会はが何処にいたかを蔡彪に調べさせたのだ。
そのことは鍾毓も知っているはずだ。
「……荷物は抱えたままで良いから着いてこい」
「はい。……鍾会様、お疲れのようですが」
「然程の疲労はしていなかったのだがな……」
は鍾会に着いていく。蔡彪も後を追っていた。
客間には鍾毓が居た。椅子に座っていて、机の上に酒の入った杯が置かれていて、白色の徳利も置かれていた。
「おかえり」
「……兄上。来るのならば来ると先に行って貰えれば……」
「今日、お前は仕事が休みだっただろう」
(鍾会様と似ています……)
鍾会と同じ茶色い髪をしているが雰囲気は鍾毓の方が柔らかい。
「士季。彼女が新しく雇った使用人か」
「ええ……」
穏やかに聞いている鍾毓だが鍾会の返事は短い。余計なことを言って会話が伸びることを避けるためである。
「と申します。……鍾会様のお兄様ですか?」
「そうなるね。士季は迷惑をかけていないかい。我が儘すぎるところがあるから」
「私の方が迷惑をかけていますので」
は鍾毓に一礼をすると言う。
穏やかな微笑を浮かべて受け答えをするなど、には出来ないため無表情で応対した。
「お前は部屋に戻っていろ」
「はい。今日はありがとうございます。鍾会様」
鍾会が疲れていて、疲労の理由は何も聞かない方が良いとは判断した。
頷くと荷物を抱えて部屋に戻る。自分が去った後の部屋の様子が少し気になったが、気にしすぎていると鍾会にまた
迷惑をかけそうなので速めに部屋に戻る。
自室に戻るとは荷物を寝台の上に置いて、自分も寝台の横に座り込んだ。
「鍾会様……のお兄様の鍾毓様……鍾毓様は……鍾会様の家族で……」
自分にも家族が居るのだろうかとは考えてみるがそのことについては浮かばない。
知識はいくつも蓄えられていて、会話をしたりすると浮かび上がるが、憶えた時期は不明だ。は欠伸をする。
「……街は……賑やかでした」
横になる。誰かが来るまで、は眠ることにした。
【続く】
次回ぐらいから大きく話が……動くと良いな
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