夜の彷徨 2

      
「……朝?」

意識が浮上し、眠そうに呟きながら彼女は寝台から降りた。
布団がくしゃくしゃになっていたので、地面に降りてから、振り返って直す。
太陽の光が部屋に差し込んでいた。鳥の囀りも聞こえる。モノの名前は分かった。

(しかし、自分のことは分かりません)

夜も考え続けてみたが自分が何者か、何をしていたのか、全てが白紙だ。
布団を整え終えると、人の気配がしたので振り返る。

「起きていたのか。寝ているようだったら叩いてやろうとはしていたが」

「鍾会様」

「何か思い出したか」

「いいえ」

扉が開き、鍾会が入ってきた。想い出していないと伝えると不快そうに眉が上げられた。

「頭でも打ってみるか」

「……やってみた方が良いのでしょうか」

頭が打って記憶が戻るというのならばその辺りの壁にでも何度でも頭をぶつけてみるべきかと彼女は考えてみる。

「やったところで戻りそうに無いな。……一日ぐらいならここに居ても構わないが、私は宮殿の方に行く」

「宮殿……」

「私は宮殿に勤めているのだ。本来ならばお前に構っている時間など無いのだが」

「構ってくれて、ありがとうございます。鍾会様……」

彼女の言葉に鍾会は複雑そうに彼女を見る。
皮肉を言っても、のれんに腕押し、ぬかにくぎだ。全く通じていないし、言葉をそのまま受け止めている。

「何だ?」

何かまた話しかけてくると察した鍾会は彼女の言葉を待つ。彼女は鍾会との会話で浮かんだ疑問を鍾会にぶつけた。

「ここは……国ですか?」



朝から疲労が津波のように襲ってきたと鍾会は感じていた。昨日の夜に出会った彼女のせいだ。
様子を見に行けば起きていたので話したが、記憶は何も想い出していない上に、ここは国かと聴いて来た。

(間者疑惑も持っていたが……)

寝る前に彼女は他国の間者かも知れないと考えていたが、違っていた。何処ですか? なら分かるにしろ、国ですか? だ。
彼女はこの国がどんな国なのかを知らないし、理解もしていない。

「鍾会様?」

無表情に彼女は聞いてくる。声の抑揚はないが鍾会の反応がおかしいと気遣っているような声に聞こえた。

「街ですか、とか何処ですか、とかなら分かるが」

「……何処ですかというとここは鍾会様の家ですが」

「その意味での何処ですかではなく……お前の質問に答えると国だ。この国は魏……曹魏だ」

「葬儀」

「曹魏だ」

キリが無い会話は切り上げて鍾会は答えを彼女に告げる。発音がややおかしかったので、訂正も入れた。
細かく言えば県や都の区分もあるのだが、まずは国名だけを教えておく。

「憶えました」

「今日ぐらいはここにいても良いが後のことも考えておけ。私は宮殿に行く」

「色々と考えておきます」

彼女が大きく頷いた。
鍾会は部屋を後にすると宮殿に向かう。その前に召使いに彼女に食事ぐらいは出しておけとは言っておいた。
宮殿へは大学を卒業してから務め始めたばかりである。いずれは出世して高い地位には就きたいがまだ下積みだ。
拾ってしまった彼女についてのこともあるが、宮殿勤めの方も考えておかなければならない。
つまらないことで間違いをして出世の道が閉ざされたくはない。

「鍾毓様、鍾会様が居ますよ」

「蔡彪。それに……兄上」

思案していると、見知った二人が前に居た。そのうちの一人は鍾会の兄であり、もう一人は兄の部下である。
鍾会と同じ茶色い髪をして僅かに鍾会よりも背の高い穏やかそうな顔をしている青年は鍾毓で、
鍾毓の側に居る鍾会よりも少し背の低い文官が着るようなゆったりとした服を着ているのは蔡彪だ。

「おはよう。会」

「……おはようございます」

末っ子である鍾会には上には兄や姉が何人かいるが唯一と言って良いほど話すのが鍾毓だ。
鍾家の家督を継いでいる鍾毓は何かと鍾会を気遣っているが鍾会は苦手であった。構ってくるのが苦手というか、
昨日だって兄の家に呼ばれて、その帰宅途中で彼女と出会ってしまったのだから、あの出会いは鍾会にとっては
鍾毓のせいとも取れなくはなかった。

「疲れてるみたいだけど?」

「別に疲れてはいない」

蔡彪は兄の部下であり、文官ではあるが、戦闘もこなせる。勘が良いところがあった。鍾会が突っぱねると鍾毓は
穏やかに話しかけた。

「宮殿勤めには慣れたか」

「昨日も兄上に聞かれましたよ。慣れました。宮殿の方は曹叡様が亡くなってから、慌ただしいようですが」

「少しは落ち着いてきたけど……曹芳様が跡を継いだけどまだ八歳だから、司馬懿様と曹爽様に先帝は補佐を頼んだけど、
どうなるかな……」

「司馬懿殿の動きの方も、気になるな」

自分のことをこれ以上は言われたくはないので、鍾会は宮殿の話題を出した。
最近、曹魏では二代目の皇帝である曹叡が亡くなった。病である。初代皇帝である曹丕も病で死んでいた。
三代目の皇帝は曹芳ではあるがまだ幼く、補佐である司馬懿と曹操が権力を握っている状態だ。司馬懿は曹丕の信用が厚かったし、
曹爽は魏の忠臣であった曹真の息子だ。

「公孫淵の乱移行、大きな反乱も起きてないし平和と言えば平和だけど」

「退屈そうだな」

「僕は宮仕えが好きなんだけど……文官だから」

「そうは言いながらお前、戦闘も出来なかったか?」

伸びをしながら蔡彪が欠伸をしていた。数年前に起きた公孫淵の乱は曹魏の北で起きた反乱であるが、司馬一族の力で
一気に沈静化した。公孫淵が反乱を起こすには値しない人物とも言われているが、司馬一族の力は大きい。
曹叡も後年は政治手腕に陰りが出てきたため、支えていたのは司馬懿だ。
蔡彪は文官を自称しているが戦うことも出来ていたはずであることを鍾会は知っていた。

「少しだけだよ。情報収集とかの方が好き」

「蔡彪が補佐をしてくれて助かる。私は足りないところばかりだからね」

足りないという鍾毓ではあるが父親の基盤を受け継ぎ、上手くやっていると周囲は口々に言っている。
父親のことを考えると鍾会は暗い気持ちになるため考えないようにはしていたが、兄と話していたりすると
想い出してしまう。振り払おうとして鍾会は思いついた気になることを蔡彪に調べて貰うことにした。

「兄上。蔡彪を少し借りたいのですが」



”彼女”は煉瓦が敷き詰められた道に立ち尽くしていた。
炎が”彼女”の周囲を取り囲み、家々を焼き尽くしている。焦げた肉の匂いはつい先ほどまで生きていた者達だ。
熱風でスカートが軽く揺れた。
空はこんな状況だというのに澄み切っているように蒼く、雲一つ無い。
隣国は復讐のためにこの国に攻撃を仕掛けたと言うが”彼女”や死んでいった者達には関係のない話だ。
立ち尽くしながら、悲嘆に心を満たされながらも”彼女”は走り出した。
街から出なければならない。
そう想いながら走り続けていたが、何かに足を取られて転んだ。地面に手を着いて起き上がると、
倒れていたのは隣国の兵だった。
青い鎧に手には長い槍を持っている。一人だけ倒れているのではなく、何人も何人も倒れていた。
鎧を貫くように背後から、心臓辺りに深い刺し傷があった。
呆然となりかけた”彼女”の前には男が立っていた。
隣国の王子だ。
右手に黒い両刃の剣を握っていた。”彼女”は気がつく。
彼はこの国の人間達を殺しただけではなく、自分が連れてきた兵も殺していったということにだ。
嗤っている王子の右腕には黒い紋様のようなものがびっしりと現れているのが袖の隙間から見えた。

「貴方の大切な人を殺したのは我が国の領主だったけれども、領主は貴方が殺したはず」

呼びかけてはみたが、王子は答えない。剣を”彼女”に振り下ろそうとしたので”彼女”は急いで逃げた。
横を通り抜けて、また真っ直ぐに、走り出す。
個人的な復讐で戦争になるだろうという話はあった。大切な者を殺される気持ちは”彼女”にも理解は出来るが、
だからと言って、これはやりすぎだ。
まるで命を無差別に奪い尽くしているかのように――。
走りながら涙をこぼしていた”彼女”は熱を感じた。
背後から、心臓に突き刺さるのは刃。

(こんなの……)

復讐は何も産まないと言う言葉よりも、関係がないのに巻き込まれたということよりも、
今まであった幸せが、小さかったけれども、そこにあった幸いが、一瞬にして無くなってしまったことが、”彼女”には辛い。
死んだ家族や友人のことなどが”彼女”の心に、過ぎったが哀しみが押し流し、消した。



座り込み壁により掛かりながら眠ってしまっていたらしい。彼女は目を開けてから、目を擦る。
手には何も着いていない。
今日は一日部屋から出ずにひたすら考えていたのだが、進展はなく、考え続けて疲れたのか寝てしまっていた。

(夢を、見ていたような……)

記憶から夢は消えていく。
此処とは全く違う風景が燃えていた気がした。鍾会の家よりももっと小さくて木造の家ばかりがあったし、
雰囲気も違っていた。焼けていなければ穏やかそうな場所であった。
意識を部屋に移す。
太陽の傾き具合で夕方が近いことが分かる。彼女は立ち上がると、部屋を出た。
暗かったので屋敷の構造などは余り分からないし歩き回るべきではないだろうと、
歩ける範囲内にあった庭らしき場所へと行く。
あの夢は、何だったのだろうか。
自分ではない誰かが殺される夢ではあったのに殺された者に彼女は何かを感じ取った。
同情とかそんな気持ちではない。
彼女は左胸に手を当てた。
心臓が規則正しく脈打っている。
手を放すと言葉を音に乗せた。

「かつて抱いた思いは歪む。そのことに誰も気がつかない。そうして世界は壊れていく。あるのは……」

「暗いことを呟いている奴だな」

思い浮かんだことを口にしていると、鍾会の声がした。
首だけで振り返る。

「鍾会様」

「お前について調べて貰ったが、お前は何処から現れたのだ。それらしき影など見ていないと結果が出たぞ」

「……調べてくれたんですね」

「当たり前だ。怪しすぎるのだぞ。お前は」

はっきりと怪しいと言われているが鍾会の反応は正しいと彼女は想う。自分のことが何一つ分からないし、
夢で見たのは、ちぐはぐな光景だ。このことを言えばさらに鍾会は困惑するので夢のことは言わない。
振り返りながら周り、鍾会と向き合う。

「……そうですね……」

自分は此処にいるのか、自分は何者なのか、分からない。夢の光景は消えて行っているが、悲嘆だけが残っていく。

「……私も何でお前に声をかけてしまったのか」

「心中察します」

無表情に彼女は言う。鍾会にとって自分は頭痛の種であると彼女は感じていた。



(コイツは感情がないと言うか、薄いのか……)

鍾会は彼女を眺める。
僅かに感情の揺れがあることもあるが、基本的に彼女は無表情だ。相手を仮に気遣っていても声などで判断しなければ
分からないような表情の無さだ。

「……考え続けて、分かったことがあります」

「分かったこと?」

「私はどうも、世界が暗さで満ちていると想っているようです」

世界が暗さで満ちている。
先ほどの彼女は詩のような、歌のような言葉を呟いていた。
彼女は人事のように言っているが記憶がある自分と記憶がない自分は同じ自分通しではあるけれども、
別人としても解釈が可能だ。

「根暗だな」

「明るさなどまやかしではないのかと……夕日だって、血のように赤いじゃないですか」

庭には夕焼けが差し込んでいた。今の時間帯は明るかった太陽が段々と沈んでいき、夜へと切り替わっていく。
血が流れるという光景は珍しくはない。
今は大きな戦が収まってはいるが小競り合いはあちこちであるだろうし、平穏もどうにか作っているに過ぎない。
話していて、彼女は暗さしか知らないような気がした。

「私はお前のような根暗は嫌いだ」

「嫌いですか」

嫌いだと言っても彼女は受け止める。言葉をそのままの意味でだ。嫌いと言って何も感じない彼女に鍾会は苛立ち、言う。

「――

?」

「お前の名だ。名字は、で良いだろう」

「私の……名や、名字ですか?」

考えた彼女の名を告げる。名字や名も告げた。そのままの勢いで鍾会は言葉をぶつけた。

「記憶がないなら記憶を作れ。反応を良くしろ。世界が暗いというなら自分で何とかしろ」

「何とかとは……何とかしても……」

「とにかくやるだけやれ!」

叫ぶようにして話すと彼女は大きく目を見開いて何度か瞬きをした。
宮殿に行く前に蔡彪に白い服を着た少女が街に来ていなかったかという曖昧な情報だけを頼りに調べて貰ったのだが、
蔡彪の腕が良かったのか情報は数時間で調べられた。
彼女が何者で何処にいたか、何をしていたかなど不明な点は変わりはないが、彼女は停滞しようとしていた。
流されるがままに生きようとしていた。このまま放り出して理不尽な目にあったとしてもそのまま受け入れるだろう。
それが鍾会には我慢ならなかった。

「分かりました。私の名は、……ですか」

「気に入らなかったのか?」

「…………名字も名前も鍾会様が、私にくれたのですね」

抑揚の無い声ではあるが、鍾会はが嬉しそうに言っているように感じられた。無表情ではあるが僅かに笑っているという
矛盾したようにも見え、感じたり、見えたものを振り払う。

「使用人と言うことでおいてやる。家のことはやれ」

「教われば出来るはずです」

が言う。鍾会は髪の毛を掻き上げた。
使用人は年老いているので引退が近い者も居たし、先を見通して置いておくのも悪くないと想った。
そう想うことにした。


【続く】

名前がようやく名乗られたというかつけられたというか合間の記憶の伏線はいつか、解けたらなと

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