長い間、眠っていたような気がする。
気がするというのは意識がまだぼんやりとしているからだ、と彼女は想う。
軽く呼吸を繰り返していると視界がようやくはっきりしてきた。
「……夜……?」
彼女は今が夜であることを知っていた。外は暗い。暗いが、完全に真っ暗というわけではない。
「月……」
何故なら、空に満月があるからだ。
彼女は空に浮かんでいるモノが月であると知っていて、満月であるとも知っていた。
星が霞んでいる。 満月の方が明るいからだ。
夜や月や星以外にも彼女が知っていることは、いくつかあったが、分からないことばかりだ。
例えば。
「おい。お前」
呼びかけられ、彼女はその声を聞いた。男の声だ。
「……私……?」
彼女は、口を開き、振り向く。
月明かりで相手が見えた。茶色い髪の男で、鎧を着ている。代わった形の外套を鎧の上から羽織っていた。
「お前以外にここに誰が居るんだ」
男は馬鹿にしたように彼女に言う。人間の気配は自分と、彼以外には無く、視界にも人間のようなものは映っていない。
「ここにいるのは、私と貴方だけですね」
答えた彼女に青年は不快そうに眼を細めた。出した答えを不快に思っているわけではなく、答えを出した自分を不快に思ったのだろう。分かりきっていることを答えていると彼は視線だけで言っていた。
「こんな夜更けに一人で立っていて、馬鹿だな」
「……馬鹿、なんでしょうか?」
分からないという風に答える。本当に分からないのだ。彼女の出せる答えが今は其れが精一杯であるからだ。
「愚かだな。何処の者だ?」
「分からないんです」
先ほどの質問は考えていたが、これは即答で答えられた。
「……分からない?」
「何処の者かと言われても、気がついたらここに居たので、分かりません」
月を眺めてから、彼女は記憶の中をさらってみた。彼女と青年の周囲には家がいくつか並んでいるとか、
寒いと言うことは分かるが、ここが何処なのか、自分が何処の者なのか、彼女には分からない。
白紙なのだ。
青年は唖然としていた。そんな顔をする理由も彼女には分かるが、対処方法が浮かばない。
「お前……名前は?」
また質問が来た。
名前、と言うのは事物の名詞だ。月も星も夜も名詞である。一般の名称や固有の名称など混じっているが、名前がないと
区別が付かない。名前を彼女は考える。
自分の名前。
あるはず、なのだが――。
「……名前、ですよね……」
「おい。まさか……」
「すみませんが、それも分かりません」
自分の名前が浮かばない。
慌てるべき所のはずだと彼女の心の何処かは言っているのに、分からないことが当然であるかのように
気持ちの大きなところは平然としている。
青年が頭痛を抑えるように額に手を当てていた。
これほどまでに困ったことは今までにないかも知れないと鍾会は考えていた。
兄である鍾毓の実家……つまりはかつて自分が住んでいた家に寄って、兄と会話をしたりしていたら、夜になっていたのだ。
人通りが全くない帰り道を歩いていると、道の真ん中に少女が立っていた。
色素の薄い髪をした白い服を着ている少女で月を見上げていた。
特にやることもなく、ただただ、月を見ていた彼女に馬鹿だと言おうとして声をかけたのがいけなかった。
(記憶喪失……)
鍾会の少し後ろを着いてきている少女は自分の名前も出身も覚えていなかったのだ。話せるし、会話も出来るのだが、
声には抑揚がない。少女は無表情であり、笑いもしなければ怒りも、絶望もしていない。
自分の記憶がないのにだ。
あるいは、無いからこそ絶望をしていないのかも知れない。彼女を放置しておいても良かったのだが、
このままだといつまで経っても彼女はあの場所で立ち尽くしているだろう。それも馬鹿らしいと想ったので、
一晩ぐらいは泊めることにしたのだ。
大学を出て宮殿に勤め始めてからは鍾会は一人暮らしをしている。一人暮らしとは言っても、使用人は何人か居るが、通いだ。
「聞きそびれていたのですが、貴方は、誰なのですか?」
「自分の名が分からないのに私に名を聞くのか」
「貴方は名前を覚えているんですよね。ここには私と貴方の二人しか居ませんが、他にも人が居たら、困りますから」
「当然だ。お前のような記憶喪失ではない。私は鍾士季だ」
「鍾士季様、ですね」
士季は字で会が名だ。しっかりと彼女は鍾会の名を呟く。大きく首肯しながら名を呼ばれ、心がくすぐったい気がした。
呼ばれて気がついたが彼女は名前と字の概念が分かっていない気がした。
記憶喪失なのだ。会話はまだそれなりに出来るが、細かいことは忘れていそうである。……忘れているとして、対応するべきだ。
「――私のことは鍾会と呼べ」
「はい。鍾会様」
「記憶喪失でも様付けぐらいはするのだな」
「そうみたいですね」
皮肉が通じない。
記憶がないなら仕方がないと鍾会はそれだけで終わらせておくことにする。このまま延々と話し続けても堂々巡りだ。
「一晩は泊めてやる。お前は……本当に記憶喪失なのだな?」
「名前や出身、経歴など、鍾会様に言われたことを想い出そうとしましたが何も浮かびません」
泊めてやると言ったときに彼女に関わることを彼女に想い出させようとしたのだが、無駄であったようだ。
後ろを歩いている彼女の服は白を基調としている。服には汚れ一つ無い。靴もだ。服には柄一つ入っていない。
外見は十代後半ぐらいであり、物静かな雰囲気をしている。
「戦で記憶を失った者の話ならば兄上から聞いたことはあるが、お前は戦などしていないだろうし」
彼女の服は綺麗すぎるし、この辺りで戦が起きたことはこのところはない。喧嘩などは別だろうが、そう考えても服の問題に戻る。
「……戦、ですか?」
「このところは大きな戦も起きていないし、お前は仮に何処の軍にいても目立ちそうだが」
「鍾会様の方が目立つ気がしますけど……」
足を止めて、首を傾げて彼女は言う。鍾会は鎧もそうだが外套の形も代わっていて目立つ。特徴的なのだ。
鍾会も足を止め、振り返った。
「私は英才の誉れ高き鍾士季だ。目立って当然だ!」
「目立つから、目印になって良かったと想います。迷いますから」
頷きながら彼女は言う。鍾会はペースが崩されると感じる。記憶がない癖に応対は出来る。
――記憶が完全になく喋られないとか、語彙がなかったりしたらそれはそれで大変すぎるが。
歩いていると屋敷が見えてきた。
「ここが私の家だ」
「人の気配が余りしませんが、住んでいるのは鍾会様だけですか?」
「私一人だ。使用人は殆どが通いだし……部屋は離れが開いている。そこで待っていろ」
「分かりました」
屋敷を眺めている彼女に鍾会は離れを案内する。一部の使用人は残っていたり、屋敷には警護の者も残っている。
先に鍾会は彼女を離れの部屋に連れて行った。離れは寝台が一つと箪笥があるぐらいの部屋だ。灯りもない。
老人と言っても良い男の使用人に”途方に暮れている馬鹿が居たので仕方がないので泊めることにした”と
彼女について説明してから、布団や最低限必要なものを運ばせる。
部屋に着くと、彼女は暗闇の中で窓の側に手をかけて月を見上げていた。
「そんなに月が珍しいのか。お前は」
「……ずっと月を眺めていたような気がするので……気がするだけですが」
「使え」
灯りをつけ、布団を寝台に敷いておく。使用人がやったが彼女も手伝っていた。彼女の先行きというのは不透明すぎた。
金を持っているようには思えないし、記憶もない。
使用人に彼女は助かります、と言っていた。
「また考えてみようと思います。私について」
「さっさと想い出せ」
寝台に腰掛けた彼女に鍾会は苦々しく言いながら部屋を後にしようとした。
「鍾会様」
「まだ何かある……」
呼びかけられて、鍾会は不機嫌そうに振り向いた。
自分が出会った彼女が寝台に腰掛けているのには変わりはない。窓から月明かりが差し込んでいる。
「ありがとうございます」
抑揚の無い声も、無表情も、変わりはない。
しかし、彼女の声は鍾会に響いた。
「……奇妙な奴だ」
何とかそれだけを言うと、鍾会は部屋を出た。
【続く】
次の話からは名前変換出せるはずですが無双6の晋だと鍾会が一番好きかも知れない
残念なところとか色々と
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